矢霧波江はかく語りき

 氷のようだね、という評価は彼女にとって誉め言葉だ。氷の女王のように美しく清廉としていて、気高く冷たい。
あらゆる人間から何度となく同じような言葉をかけられた事のある矢霧波江にとって、その賛辞はすでに陳腐なものだった。比喩ですらない、と耳に入ったその言葉を掃き落とす。必要とあらば口の端に薄い微笑を浮かべて会釈のひとつでもしてみせるが、仕事仲間に媚びなど不要だ。たとえそれが形式上の上司から告げられた言葉であっても、彼女にとってはあってもなくても変わらない、コンビニでもらう割り箸のようものだった。
「氷のようだね、波江さん」
「それはどうも」

言葉だけではない、波江にしてみればこの上司そのものがコンビニ割り箸程度の存在価値であると言ってもよかった。そしていらない割り箸は捨てればいい。
という事でいつものごとく波江はたいした反応も返さず、黙々と書類をめくる。今日中に膨大な量の資料を可視化できる形でまとめなくてはいけないのだ、無駄なお世辞に付き合う暇があるなら手を動かしていたかった。
「あ、氷のようなって褒め言葉だよ・・・なんて言わなくてもわかってるか。いやほんと、波江さんって横顔も嫌みなくらい整ってるよね。鼻は高くて小さめで、唇なんてまさに黄金比って感じの形だし。まぁちょっと薄めだけどさ、男はなんだかんだそれくらいを一番好むじゃない?」

しかしどうやらこの割り箸、もとい上司である折原臨也は、掃いても捨ててもあまりあるほどの言葉をべらべらと並べ立てるのを趣味としているきらいがある。本当に性質が悪い。波江はじろりと声のする方を見やった。
「・・・・・・あなたは私に仕事をしてほしいのかしら、それともそのどうでもよさそうな話に付き合ってほしいのかしら」
「いやだな、波江さんって黙らないと仕事ができないような人だったっけ」
しかも人を逆撫でする才能は随一の物を持っている。波江は強い剣呑とした色を乗せ一瞥し、再び手元に視線を戻した。しかし臨也が刺々しい波江の態度を意にも介す訳もなく、相変わらず浮ついた声が途切れることは無い。
「氷のように美しいってさ、中途半端な美人に言うと歯の浮く台詞になっちゃうけど波江さんなら表現負けしないね、まさにその通りって感じ。スタイルも良いし声も綺麗、全くもって完璧じゃないか」
「美辞麗句並べ立てて気持ち悪いわね・・・なに、感謝してもらいたいの?」
「違うよ、ただ褒めたくなっただけさ。俺は美しいものが好きだからね・・・ひねくれてるなぁ」
「あなたに言われたくないわ」
臨也が無意味な応酬を楽しむ事はよくあるので、今回もその類なのかと気づかれない程度に首を傾げる。しかしどうも、何か腑に落ちない気持ち悪さがつきまとう。臨也本人としては隠しておきたいらしい本音が見え隠れしているような、若干の歯切れの悪さが言葉の端々に表れるのだ。彼のよく喋る口は、時としてその饒舌さを鎧に変える事があった。今回もそのパターンのような気がしてならない。

そんな波江の疑問は、次の一言で決定的なものとなった。
「やっぱさ、人を喩える一言ってその人物をよく表したものが多いんだよね。対象者の事をよく観察していないと比喩なんて出てこない」
あぁ、と波江はため息をついた。やむ事のない声に対する抗議ではない。この下衆の極みのような男にはまるでそぐわない感情を見つけてしまった事に対して、である。言葉にすればうんざりと言ったところか。
「でもさ、その比喩が本人をまるで表していないとしたら
どうだろう?その場合は今俺が言った説は当てはまらないという事になる。たいした思い入れがある訳でもなく、適当にー」
「心配しなくてもあなたは虫そっくりよ」

しん、と沈黙が訪れる。波江の細い指がぱらぱらと紙をめくる乾いた音以外何も聞こえなくなった事に少し気をよくしながら、糸が切れたかのように黙りこくっている雇い主を横目で見る。大きなモニターの向こうで俯いているらしい彼の表情は拝めなかったが、波江には恐らく悔しそうに顔をしかめているであろう雇い主の表情を容易に想像する事が出来た。
「またあの男の事で悩んでるの?」
「・・・俺頭の良い女性って嫌いだな」
「有能な秘書が欲しいと言ったのはどちら様だったかしら」
うんざり、ではあるが面白くもある。常に人を見下したような笑みばかり浮かべている男が恥も外聞もなく情けない表情をさらけ出す、唯一の機会なのだ。ようやくこちらに顔を覗かせた、じとりと粘着質な視線を真っ向から受け止めて笑ってやった。
「波江の笑顔って怖いよね・・・」
「憐憫の笑みだからよ」
心からの笑顔は愛してやまない弟以外に見せるつもりもない。笑われただけ救われたとでも思いなさい、と波江は続ける。
「…じゃあさぁ、あわれんでくれるついでに答えてよ」
「なに?」
「シズちゃんってなんで俺の事ノミ虫って呼ぶんだろ」
「自分より小さくて黒くてぴょんぴょん目障りなくらい飛び回って、やたらすばしっこい害ある存在だからじゃないかしら」
「・・・聞かなきゃよかった・・・・・・」
両手で頭を抱え込むという芝居じみた仕草にも随分と悲壮感が漂っている。波江は僅かに笑みを形作ったまま、どうやらだいぶ参っているらしい上司のつむじを見つめた。








この男が目の敵にしていた平和島静雄という男に対して妙な感情を抱き始めたのは、つい最近の事である。いや、抱いたのはずっと前から、それこそ波江と臨也が出会う遙か昔からなのかもしれない。妙な事を口走り始めたのが、といった方が正しい。
好きかも、と言った。波江さん俺、好きかも。シズちゃんの事。
喉が引きつれているかのように苦しげな声を出した臨也は、まごう事無く恋に身を焦がす男の表情をしていた。俺どうしたらいいかな、と困り果てている男に、彼女は言ってやったのだ。精一杯の優しさを込めて。
「諦めなさい」

とち狂っていると言わなかったのは臨也への優しさ、諦めろと言ったのはまだ見ぬ平和島への優しさだった。今まで全力で自分に憎しみの限りを向けてきた男に、突然愛を囁かれたらどう思うか?答えは明白だ。しかも平和島はどうやら、極端に愛され馴れていない人間らしい。そんな人間に底無しの愛情を与えるなんて、毒を注ぎ込むようなものである。過度の薬は毒になる、愛も同じよと説くと、臨也は力なさげに首を振った。全くもって彼らしくない仕草だった。
「わかってる、だから俺はそれを体現しちゃったんだ」
「え?」
「過剰な愛が毒になるなら、逆も然りだろう?」
シズちゃんに向けていた俺の憎しみと毒は愛へと変わってしまった、そう臨也は嘆いた。もう無かった事にするなんて無理、俺には出来ない、と。



それが半年前のこと。優しさにあふれた助言も聞き入れずに、身も世もなくとろとろに溶けきった愛に目覚めた臨也がどうなるのか。少し興味もあり観察をしていたのだが、波江が思った以上に彼は重傷であるようだった。上手な好意の表現方法がわからないらしく、意を決したように出かけていっては打ちひしがれて帰ってくるという毎日が続いている。
しかし、一番哀れなのは平和島の方だった。殺すと死んでの二言だけで成り立っていた関係性に、突然相手方が好きだという異質な三文字をねじ込んできたのである。最初の方は気持ち悪い事を言うなと激昂していたが、最近では「どっか行けノミ蟲!」と一言悲痛に叫んで逃げ出す姿もちょくちょく見かけられるらしい。
「…悪化してるじゃない」
「うん…」
女の波江が一目置くほどに美しく艶めいた黒髪を力無く揺らし、臨也は呆けたように笑う。年中無休でうざったい事この上ない上司だが、思わずかけらほどの同情心をもたげさせるほどに情けない笑顔だ。
「……どうしようも無い訳?」
「どうって?それは俺がシズちゃんを諦めるとか?ていうか波江さん珍しいね、なんで今日はこんなに俺の話に付き合ってくれるのかな」
「あなたがいつまで経っても馬鹿みたいに腑抜けているから、同情してあげてるのよ」
そんな憎まれ口にもたいした反応を見せず、彼は長い指にデスクトップから伸びるマウスコードを巻きつけたり解いたりを繰り返している。だってさぁ、と弱々しい口調で臨也は口を開いた。
「ノミ蟲としか言ってくれないんだよね、最近。俺最近は斬りつけたりもしてないのにさ、距離は遠のく一方!お手上げって感じなんだよ正直言って。だってシズちゃん、鍛え上げられたドーベルマン以上に警戒心強いんだもん。シズちゃんが呼んでくれてた俺の名前の響きとかまでもう忘れそう…諦めようかな…昔の関係の方がまだ良かったかも」
飽きたな、とぼんやり思う。臨也の腑抜け具合にも、いい加減このマイナス思考のループにも。最初は面白がっていた身で言うのもどうかと思うが、正直彼女にとって上司のくだらない恋煩いなどどうでも良かった。彼女には唯一無二の燦然と輝く愛があったし、他人の愛が実ろうと砕け散ろうと毛ほどの興味も無い。
そこまでの結論に至った波江は、この話に蹴りをつけようとすっくと立ち上がった。突然の行動に驚いたのか、わずかに見開かれた瞳が彼女を見上げる。
「コーヒー飲む?」
「え、コーヒー…あ、うん」
「入れてあげるわ」
「あ、ありがとう…?」
「あぁそれから」
足を既にキッチンへと向かわせながら、何気ない事のように続けた。

「平和島、あなたの事普通に臨也って呼んでたわよ」
「…え?」
カウンターの上に備え付けてある棚から、粉の入ったカプセルを取り出す。蓋を開ければ軽やかで香ばしいにおいが鼻をくすぐり、思わず口角が上がった。
「こないだ、ここ来た時に。臨也の奴、変な事ばっか口走るんじゃなくて言いたい事があるなら順序立てて簡潔に話せって。ぼそぼそ呟いて帰ってったわよ」
「ちょ、波江、なんで教えてくれないのそれ!」
椅子が蹴倒される派手な音がした方を、ちらりと見やる。
「伝えておけ、とは言われてなかったもの」
自分でもしらじらしいほどに冷静な声音だ。氷のようと形容されるのはやはり、彼女にとって最早比喩ですら無いのかもしれない。それにしても、と波江はコーヒーメーカーの調子を確認する振りをしつつ愉快な気持ちになった。スイッチを入れると共に、唸るような機械音と声にならない叫びのようなものを上げた臨也の声が混ざり合う。
この下衆のような男がどんな恋路を辿ろうと毛ほどの興味も関心も無いが、他人の一挙一動に振り回されては情けない顔をしている様は少しくらい見てやってもいい。
「せいぜい愛に身を焦がしなさい」




慌ただしく閉められたドアのこちら側で、女の独り言が漏らされる。
「…骨なんて拾うのも面倒だから、跡形も無いくらい溶けきってくればいいのよ」
そうして波江は、今日は帰ってこないであろう上司の、その五月蠅い口へと運ばれる筈だったコーヒーを優雅に飲みほした。