夜に泣くいきもの

 
愛してる。好き。世界で一番とかじゃない、優劣なんてつけられない、俺の世界は君だけだから。
陽光の残滓に蒸された夜の空気に触れ、静雄の肌は湿っていた。汗ばむ頭を白い指で締め付けるように掴みながら、男はかつて全人類に対して声高に叫んでいた台詞を細く囁く。
愛している。たしかに彼はそう言ったのだ。


脳に直接響いた衝撃に、肺から大量の空気が吐き出される。ひどくせき込んだせいで喉の内側が爪でひっかかれたように痛い。霞む視界に映る毛羽立った畳がずいぶんと近い位置にある事から、静雄は今更ながら自分がうつぶせに押し倒されたのだと自覚した。
「っ…は、ぁ」
腰の上に乗り上げてきた男を睨みつけようと、首を必死に巡らせる。黒いコートの裾を縁取る鼠色のフェイクファーがちらりと見え、次いで掠れ気味に吐かれる荒い息が聞こえた。聞き慣れた声音だ。たった今自分が招き入れ、三和土で靴を脱いでいる時に渾身の力を以て突き飛ばしてきた人間が折原臨也であるのは間違いない。
何しやがんだと開きかけた口は、しかし意味を為す言葉を生む事は出来なかった。半分まで持ちあがりかけていた首に、瞬間強い圧力がかかり静雄の頬が畳を擦る。ざ、と乾いた音と共に左の耳たぶが焼けつくような熱を持った。
「っんの、クソ…ッ」
殴られたのだ、そうわかるまでにたいした時間はかからなかった。頭の奥で閃光が走る、その衝動におされるがままに静雄は自分を抑えつけようとする臨也を体の捻りだけで振り落とし、バランスを崩しかけたその真っ黒い体に拳を叩きつけた。一瞬手の甲に走る熱。
臨也は大きな毬か何かのように吹っ飛び、部屋の隅に置かれている冷蔵庫にしたたかにぶち当たった。げだかぐだか、先ほどの静雄とさして変わらない潰れたような音が漏れる。生白い手足を黒い衣服で包んだ体はずるり、と扉を伝うようにひしゃげ落ち、床の上で蹲った。
「いきなり何すんだ手前はよぉ、あぁ?」
「…っ」
胡乱な口調で恫喝するように疑問を投げる。臨也は特に怯えるでもなく口の端を歪めて「ご挨拶だなぁ」とかなんとか、まぁとにかく笑いながら静雄の疑問をいなし、吹っ飛ばされた衝撃に少し震えながらゆっくりと立ち上がる。遊びに来たんだよ、いらねぇ帰れ。そんないつもと変わらない応酬の後に、臨也の白い手が蛇のように頬へと伸ばされ、それから。

今まで幾度となく繰り返されてきた行為を、そしてこれからもまた行われるであろう行為を、静雄は脳裏で思い浮かべながら惨めな体勢のままの臨也を見下ろしていた。は、は、と男の吐く荒い息だけが、殺風景な部屋の隙間を埋めるように耳を打つ。
しかし次に臨也の起こした行動は、静雄の脳内を見事に裏切るものだった。
床の上で蹲るようにしていた体が、それこそ本当に毬のように静雄の体に突っ込んできたのだ。体勢を整える訳でもなく、ただ前のめりに、全体重をかけたその突撃があまりにも予想外で一瞬受け身を忘れる。
「ぐっ…」
いくら静雄と言えど、成人男性の全体重を力の抜け切った腹に受ければ倒れもする。2人でもつれるように床へ倒れ込み、先ほどとたいして変わらない体勢で荒く息をつく。うつ伏せか仰向けかの違いだ。
したたかに後頭部を打ち意識が朦朧としている分鋭敏になった体感で、静雄は自身の腹の上に乗り上げる熱い体温を感じた。
「…シズちゃん、ねぇ、シズちゃん」
押し殺したような低い声が空気を震わせる。名を呼ばれ、徐々に鮮明になる視界のその先で、臨也がその馬鹿みたいに白い腕をこちらに伸ばしてくるのをとらえた。あぁこれはいつも通りだ、と静雄はどこかで納得する。光源がどこにも無い薄暗い室内で、臨也の腕はすべらかな陶器のように、ぼんやりと内側に光を秘めているようにも見えた。細く、しかし筋張ったその腕が静雄の方に伸ばされ、それから、それから。
「……シズちゃん」
その腕の先で作られた固い拳が静雄の頬を殴りつけた瞬間、静雄は再び靄のかかった脳の奥で泣きそうな声を、聞いた。



この男と自分が、互いを傷つけるといった意図抜きで体に触れあうだなんて誰が予想しただろう。もうずっと、10年もの間、静雄達の間には純然な殺意だけが渦巻いていたのだ。少なくとも、静雄はそう思っていた。しかし臨也からすると、それは少し違ったらしい。

「俺達は、まっとうな愛を貫けないタイプだ。シズちゃんは他人への庇護欲よりも自己保身が強い。誰かを愛そうとする事で傷つけてしまったら、そう怯えてばかりだ。何に怯えてるかって、面白いよね、シズちゃんは他人の傷ではなくて他人を傷つける事によって抉られる、自分自身の傷に怯えてる!傷つけるのが怖いだなんていかにも他人を慮るような事を言っておいて、その実はエゴのかたまり以外の何物でもない!エゴだなんて、人間の業そのものみたいなもんを化け物であるシズちゃんが持ってるなんて!お笑い草だ、笑い飛ばしてやりたいよ」
ある夏の夜、臨也は常の得意な弁舌を以てして、静雄の前で仰々しい演説を披露した。静雄が珍しくもキレる事無く彼の言葉を最後まで聞けた理由は二つある。まず一つ目、それが普段の彼の言葉のように緻密に計算されつくされたものとは少し違い、言うなればオルゴールの歯車をところどころやすりで削ったように歪で、感情的な代物だったという事。二つ目の理由は、そこに嘘がなかったからだ。
臨也の言う言葉はたしかに正論だった、たしかに静雄は人をまともに愛せそうには無いと自覚していたし、その真意は愛す事によって傷つけられるという可能性に恐怖していたというところにあった。

相変わらず胸糞悪い台詞回しばかりしやがる、と青筋を立てつつも客観視された自分の話にどこか興味をひかれ、臨也が口を開いて5分ほど経ってからも静雄の手には標識一つ握られてはいなかった。声高に気持ち悪い、と叫んだのを最後にふと口を閉ざした臨也を静かな目で見据え、静雄は初めて行動を起こす事にした。拳も握らず、足も踏み出さず、ゆっくりと、煙草の煙を吐き出すような静かな調子で「結局」と口を開いたのである。
「で、結局手前は何が言いてぇんだよ」
「……え」
「俺たちは、つったろ。真っ当な愛を貫くのは俺たちには無理だって。俺の事ばっか喋りやがって、手前はどうなんだ」
「……驚いた、シズちゃんが俺の言う事キレずに聞いてくれる事なんてあったんだ」
「…今の話の中身に嘘は無さそうだからな」
手前が妙に人間くさい、切羽詰まったような喋り方するからだとは言わなかった。
謀略にがんじがらめになった言葉でなければ、別に最後まで聞いてやらない事も無い。そう言うと、臨也は一瞬息をのんだ後に地面を見つめた。去来する感情にのしかかられているように深く首を垂れるその様子は、彼をひどく小さな人間のように見せている。

泣くのか、と思わず馬鹿げた発想を浮かべた自分自身に静雄がうろたえた頃、ようやく臨也は自分の名を呼んだ。いまわしい、付けた理由に悪意以外の何物もこもっていないだろう呼び名が、2人の間を悠然と横たわる夜闇に落ちる。
「シズちゃんはさ、俺が、何か企んでなかったら最後まで話聞いてくれるんだろ」
「まぁな」
「悪意があるかどうかなんて、またにおいがどうとかで嗅ぎわけちゃうんだろ」
「あー…まぁな」
「ハッどんな嗅覚だよ……ほんと化け物じみてるよねぇ」
「あぁ?!」
ずっと停滞したままだった空気が緩慢に動く。コンクリートを擦る、ざらざらとした足音を立てて臨也が静雄の方へと歩みを進めたのだ。
「俺は全人類への愛を謳っているけど、そこに偽りなんて無いんだけど、でも真意はシズちゃんと一緒だったんだよね。一人に愛を注いだら、相手からも同じだけの気持ちが欲しい。五感も感情も、俺だけの為に使ってほしい。そう思う程度に独占欲が強いタイプでさ」
「…異常だな」
「言ったろ?まっとうな愛じゃないって。まぁそんな愛を受け止めてくれる相手なんていないだろうし、見つけただなんて錯覚して自分が傷つくのも嫌だったし…要は自己保身だよ、君と同じだ。それで、この身に余りある膨大な愛情を、そもそも見返りなんて求めきれない人間全てに捧げる事にしたんだけど、」
ざり、とかすれる音がやんだ。もう男は随分と近い距離にいて、二人の間は静雄と臨也のどちらかが片腕を伸ばせば触れあえる程度にしか開いていなかった。
静雄は依然として静かに臨也を見ていた。見るしか無かった。臨也の言葉はいつにないわかりやすさで静雄の耳に入ってきたが、そこに含まれる感情はわかりやすすぎて静雄を戸惑わせた。静雄は口を開けた。手前はさみしいのか、と思わず聞いて、いや違ぇな、と口の中だけでぼそりと呟く。瞬間剣呑な光を帯びた臨也の黒々とした瞳を見つめ、再び声を落とした。
「……手前も、か」
「っ…」
唇をかみしめた臨也が腕を伸ばしたせいで、互いの熱が近くなる。引き寄せるでも、殴りつけるでもなく、臨也は静雄の首筋に頬を寄せた。縋りつくように、というのが一番正しい、そんな切羽詰まった力強さで静雄を腕が締め付ける。ぎょっと体を固くした静雄の耳に直接吹きこまれるように、臨也の声がした。
「…気付いてる?もう俺にもシズちゃんにも、ずっと長い間互いしか見えてないって」
「……は?」
「他人を傷つける事で自分が傷つく、と思ってるならさ、傷つけてもなんとも思わない人間を愛せばいいって事、気付いてる?」
「手前、何言って」
臨也は繰り返した。俺がシズちゃんの事だけを見てたの、気付いてる?俺たちがこの馬鹿げた追いかけっこを始めてもう10年も経つって気付いてる?熱を持った息が肩口にかかり、徐々に湿り気を帯びてくる感覚に静雄はくらくらした。
頭の奥から滲むように何らかの感情が染み出してくるのがわかったが、それがどういった名前のものなのかがわからない。わからないけれど、首に縋りつくこの体温が不思議と嫌ではないという事だけはわかった。わかったんじゃない、気付いたのか、静雄がその思考に行きついたのと臨也の「気付いてる?」という言葉の雨が止んだのは同時だった。
「…長々話されてもわかんねぇ」
「……あぁもう、だから…好きだって言ってんの、気付かない?気付かないよね、シズちゃんだし、あぁほんとに、もう……気付けよ…」
今度こそ本当に、泣きそうなほど弱々しい声を出した臨也が顔を上げる。骨ばった5本の指が静雄の頭蓋に這わされ、静雄の瞳いっぱいに臨也の顔が映りこんだ。紡がれたたった5文字と伸びあがるその仕草の先に何が待っているかなんて、知らないわけも無かったが静雄は動かなかった。
ただ、これじゃ気付いたって言えねぇな、とさして残念にも思わないまま瞼を下ろし、唇に押しつけられる熱を受けたのだった。


こうして二人は変わった。臨也は静雄に慈しむような視線を向け、静雄は臨也を殴る以外の意図を持って不器用に腕を伸ばすようになった。勿論関係が変わるまでの時間が長すぎたせいで、彼らは依然として悪態をついたし、時にはナイフや物を介在させる事だってある。
俺たちにとって暴力は愛欲と同じだね、とは臨也の言葉だ。そんな変態は手前だけで沢山だ、そうすげなく返したもののあながち間違ってはいないと思う。
静雄は時に臨也を殴ろうとするが、そこに込めるのは言葉で表しきれない飽和しきった感情だ。暴発しそうな気持ちを掌の中で握りしめ、殴る。臨也はそれを避け、苦々しい顔で拳を作っては応戦する。また同じ手で、臨也はいつまでも追いすがって静雄の快楽を全て引き出そうとする。生み出される感情は違えこそ、やってる事はたいして変わるものでも無いと、そう思うのだ。臨也が昔言っていた、相手からの全ての感情が欲しいという欲望を忠実に叶えてやっているのだと気づいた時は、あぁこういう事かと妙な納得すらした。

だから臨也から暴力という形で手の熱を与えられようと、別に静雄は何の不満も無かったのである。流石に家に招き入れるなり頸椎に手刀をたたき込まれて押しつぶされたのには苛つきもしたが、セックスになだれ込む為の準備運動的な物なのかと、そんな風に思っていた。
「…っ臨也、」

だから、と思う。だから、別に俺はお前に殴られようと顔面を潰す程の勢いで拳を振り落とされようと、そんなのは大した問題じゃない。とりあえず、なんでだ。どうしたお前。
そう聞きたいだけなのに、口を開こうとすれば容赦なく横っ面を殴り飛ばされる。そのせいでさっきから、静雄はずっと臨也の名前しか呼べず仕舞いだった。
臨也は忙しそうだった。静雄を殴ったかと思えば、同じ場所にキスを落とす為にかがみこんだ。薄い唇は熱く湿っていて、頬や顎を撫でるように掠っては静雄の名を紡いだ。掌は固められていない時は性急に静雄の体を這いまわり、およそ常の彼らしくない不器用さでシャツのボタンを外したり、布地を破るように掴み取り去ったりした。
必死、そういった言葉がしっくりくるような挙動だ。恐らく臨也が自分を形容される表現の中で一番嫌がるものだろうが、どこから見ても臨也は必死だった。殴る、脱がす、殴る、キスをする、また殴る。臨也は必死で、かつ、とても疲れているようにも見えた。固すぎる筋肉を殴り続けているせいで、おそらく手の甲の感覚はもうなくなっているだろう。
「おいっ…ノミ、蟲」
何故かはわからない、その時はたりと音が止んだ。衣擦れの音も、殴打の音も、何もかもが止み静雄の声だけがやたら大きく空気を打つ。
深いダメージを負ってはいないにしても痛いものは痛い。痛みをやり過ごそうと、じんじんと疼く熱が点在している体を身じろぎさせた時、剥き身にされた腹の上にぱたりと水が落ちた。ぬるい、わずかな水がぱたぱたと続け様に静雄の肌を濡らす。
シズちゃん、と何度目かわからない声がした。
「言って」
「…何を」
「愛してるって」
酷薄そうな唇が震えているのがわかった。馬鹿な事を言わせるな、そう普段通り一蹴しようとした静雄は、その唇を見た瞬間声を出せなくなってしまった。臨也が静雄を見下ろす。今日初めて絡んだ視線の先には目尻と鼻の頭を真っ赤に染めた情けない顔があって、静雄はますます途方に暮れた。
まるであの夜の臨也のようだった。静雄に愛を語った日。どこもかしこも震えていて、頼りない、脆弱ないきものになってしまった日。
「…あいしてる」
いつもの生意気で、人をくったような態度で傲然と笑う男はどこへいった。静雄は自分の動揺を静まらせたい一心で、請われた通りの台詞を舌に乗せた。ただの音の羅列として発音したはずのそれは、随分と柔らかく温かい温度を持っているように静雄の耳へと届いた。
しかし臨也には、そのようには聞こえなかったのかもしれない。確かめる術は無い、静雄が最後の1音を発したか発さないか、その刹那に再び臨也の拳が静雄の顎をしたたかに殴りつけたのだ。ガチン、と歯と歯がぶつかり合う硬質な音がする。
「信じられる訳、無いだろ、そんなのっ…」
引き攣ったような声が頭に響き、耳の奥が痛い。臨也の赤い瞳から流れ出る涙はさらに激しさを増し、幾つもの筋を作っては顎先に溜まり、ぼたぼたと静雄の腹に落ちてくる。
言えって言ったのは手前だろうが、と理不尽極まりない台詞に吠える気力も無いまま静雄は唖然として臨也を見つめていた。
「…愛してよ、シズちゃん、俺を愛して」
臨也は泣いている。泣きながらズボンのチャックを下ろし、しっかり固くもなっていない半勃ちの自身に震える手を伸ばしている。臨也が、押し倒して静雄の服を脱がし、勃ちあがったものを挿れる、といった順序を律義にも踏まえようとしているらしいと気付いた静雄は悲しくなった。暴力は愛欲と同じだとたしかに臨也は言ったが、今ここに欲を抱いた人間は誰ひとりとしていないのだ。よどんだ空気が溜まりっぱなしの室内で、玄関先でこんな事をしているのはとても滑稽で、かなしい。

涙をぬぐってやりたいと思う。震える肩を抱きしめたいし、細長い手指がとくとくと脈打っている様を触って知りたいとも思う。そう、静雄は臨也の手が好きだった。男の態度は大抵静雄を苛つかせたが、指先まで細やかな神経を使っているのがわかるほどの繊細さで髪を触られたり、顎の輪郭をなぞられたりする事だけは嫌いではなかった。
しかし静雄の好きな手は今、臨也自身に添えられている。単調にも思える上下運動を繰り返し、恐らく静雄に挿入する為の準備をしているのだろうが、その様子はひどくさみしいものだった。
今、臨也の肩を引き寄せて抱きしめる事も、頬を濡らし続ける涙を人差し指で弾き飛ばす事も、静雄にはなんでも出来るはずだった。けれど静雄は動かない。じぃと、馬鹿みたいに仰向けに転がったままだ。腹の中でわだかまる色々な感情がぐちゃぐちゃに混じり、毒のように静雄を侵していくのがわかった。
「俺を愛してよ…」
男の言う愛が何を指すのか、静雄は知らなかった。抱きしめてやりたいしキスもしてやりたいし、その指で頭を撫でてもらいたい。この気持ちは本物だ。あいしていると、その言葉の意味が映画や小説の中で登場人物が叫ぶものと同じなのであれば、たしかに俺はお前を愛しているのに。
渦巻く毒の中に、不思議と怒りは湧いてこなかった。静雄はただただ悲しかった。愛していると信じない臨也が、そして臨也の言う愛を体現出来ない自分が。
「シズちゃん、俺は、君を、こんなに愛してるのに」

嗚咽は止まない。殴られた拍子に歯が粘膜を傷つけたのだろう、血の味が口内に充満している。
やわらかい所に鋭いものを当てると、傷がつくのだ。愛がなにかもわからない、こんな自分でも。