嘘は愛だと誰かが言った。嘘を作った人間は、永遠にその嘘を守らなければいけないから。誰かのために作られた世界の中で、ずっと生きていく覚悟があるという事だから。
嘘をつく、つきとおすという事は愛であり、咎なのだ。そう、ずっと昔に誰かが言った。
「手前はよぉ・・・その頭ん中かっ開いて言ってやらないとわかんねぇみてぇだなぁ」
「嫌だなシズちゃん、俺はちゃんと覚えてるよ?池袋には来るな、だろ」
君と違って記憶力はいいんだ、臨也はそう言って舞台じみた仕草で両腕を広げてみせた。直後、腹に響くような音を立てて空気が震える。静雄の手に握られた交通標識が、臨也をめがけて唸ったのだ。もちろん横凪に殴られたのは空気ばかりで、すでにその場に臨也はいない。
「覚えてんなら、なんで守らねぇのかなぁ?臨也くんよぉ!」
「決まってるじゃない」
「あ?」
暴発しそうな怒りを必死で押し止めているのであろう、静雄の笑っているようにも見える目が、一瞬幼くなる。目尻の輪郭が緩み、その無防備な表情に舌打ちしたくなる衝動を臨也は飲み下すようにして口を開いた。
「なんで俺がシズちゃんの言うこと聞かなきゃいけないわけ?それに別に俺、シズちゃんに会いに来てる訳じゃないから。どっちかっていうとシズちゃんが、池袋を訪れた俺に会いに来てるって言った方が正しいんじゃないかなぁ?」
理屈をこねまわすという事にかけては臨也の独壇場だ。ひとつの事象を熱して叩いて引き伸ばして、まったく別の何かを象らせることなど朝飯前である。対してこの、背ばかりやけに高い男の小さな頭ではそんな高度な事が出来る訳も無い。シズちゃん馬鹿だから、という呟きは心の中にとどめておく。この単細胞では、あらゆる事柄の核の部分だけしか覚えられないのだ。
相性が合わなくて当然だと、何度目か知れない結論に至ったあたりで静雄が唸るように言葉を吐いた。
「…手前が来ると街が荒れるんだよ」
「それで怒るって?ハハッそれこそ道理がなってないよシズちゃん!街を荒らすヒールを蹴散らすヒーロー気取り?それとも土地神か何かのつもり?」
「うぜぇうるせぇ、消えろ」
「そうだ訂正しよう!俺は普段君に会う為に池袋を訪れてるんじゃないと言ったけど、今日だけはシズちゃんに伝えたい事があってきたんだよ」
「いらねぇ、どうせろくな事じゃねぇんだろうがっ…消えねぇならこの手で消してやる」
「まぁ聞いてよ。俺が来るとシズちゃんの機嫌が悪くなる、街を荒らすんじゃねぇって言って殴りに来る。この時点でおかしいんだよ、シズちゃんは街じゃない。君そのものが街だというほど、この町の人間はシズちゃんを重要視してないし、それにむしろ、直接的に街を荒らすのは俺なんかより、シズちゃん、君だろ?」
自分の声がずいぶんと浮ついている。静雄が反論したくて、そしてその両手で臨也の事を殴り飛ばしたいという衝動に必死で耐えているのがわかるからだ。それから何より、静雄の瞳がわずかに揺れている。怒りに染まった視線の奥で、ほのかにたゆたう恐れにも似たその色に、シズちゃん、次に何言われるか気付いてるんじゃない?そう口に出してやりたくなる。
「なんだか最近、周りに人間が増えたせいで忘れがちみたいだから教えてあげよう」
臨也はひときわ声高らかに口上を述べる。聞きたくないと言わんばかりに静雄が目をそらす、その僅かな隙を刺し貫くつもりで笑いまじりの声を浴びせた。
「シズちゃんは、ひとりだよ」
臨也は静雄を、閉じこめる。嘘を幾度も重ねて、昼も夜も覚める事の無い夢の中で。あるいは、少し先の未来の中で。
静雄の周りには誰もいない。ただひとり、何も見ない瞳だけを獣のようにきらきらとさせて、美しい暴力で全てを消しさっていく、世界で一人だけの化け物。
それは静雄ではない。臨也の作った、まがいものの世界でだけ見える、歪んだ虚像だ。臨也が自らの手と足と、口と、脳の全てを駆使して作り上げたのだ。
8年間、日々たゆまぬ努力を続けた結晶は、臨也にとって宝物だった。細かい傷が無数についた、掌のくぼみに納まるくらいのちいさなちいさなガラス玉のような結晶。臨也はその中にいる静雄をじっと見る。飽きもせず、毎日、小さな世界のちいさな静雄を見て過ごす。ちいさな静雄は臨也を傷つけない。何も映さない強い視線は、いっそいたいけな印象すらはらむかもしれない。
誰にも見えないから、誰を見る事もできない。愛されている事がわからないから、誰も愛さない。静雄がそうなる事を臨也は望んでいる。渇望している。その為ならどんな毒にでも手を出した。こうやって、世界が決壊しそうになるたびにちまちまと補修工事を行うのだ。ガラスを針金でひっかいて細かい傷をつけるのと同じ要領で、静雄のなかに棘を刺す。
静雄の肌は刃物を拒絶するが、彼の心は存外に柔らかいものだった。お前は孤独だと、そんな言葉をちらつかせるだけで静雄はきゅっと俯いた。拳をかたく握りしめて目を逸らす、そんな様子を見る度に臨也は嘲笑ってやりたいような拳にナイフを突きたててやりたいような、尖った顎に指を這わせて無理にでもこちらを向かせたいような、妙な気分になるのだった。
静雄の簡単な、というか純粋な部分を臨也は嫌う。周到に立てた計画を自ら崩してしまいそうになるから。世界を壊すわけにはいかないのだ。自分だけのガラス玉。
それから臨也は、自身の作った世界で死ぬ静雄も夢想する。あの禍々しく美しい力を秘めた腕が力無く垂れ下がり、薄い瞼が瞳をゆっくりと覆う様を。彼の瞳が最後に映すものは、彼の愛するものでは無い。尊敬する上司でも、可愛がっている部下でも、首なしの親友でも勿論、ない。
ひとりぼっちの化け物が小さく息をとめるその瞬間に、臨也はガラス玉を割ってやろうと思っている。突如吹きわたる風、愛の声や親しいやわらかい存在の数々が静雄の周りを暴発したかのように取り巻く。驚く静雄は一瞬だけ目を見開いて、自分を見つめる痛い程の視線に気づくだろう。そして悟る、今まで自分のいた世界がまがいもので、そのまがいものを作り上げた存在が憎くて憎くてたまらなかった、この目の前で笑う男だという事に。
静雄は怒るだろう。一瞬のうちに憎しみと狂気の色で瞳をいっぱいにして、けれど彼の口から咆哮がほとばしる事は無い。彼は死んでしまうのだから。一生の最後を、臨也への憎しみで溢れさせて、その瞳を閉ざしてしまうのだから。
綺麗で愚かな化け物が死に、粉々になったガラスの欠片を、臨也は大切に大切に取っておくと決めている。
(そうしたらシズちゃん、俺は君のことを愛せる気がする)
静雄と、自分と、ガラス玉。それこそが臨也の求める世界であり、真実なのだった。ガラス玉など無くて、ただの虚構の妄想に他人を巻き込むなと言われようと、嘘は突き通せば真実にすらなり得る。ひとつの事象を捻じ曲げる事にかけて臨也は天才的なのだから。
臨也は笑う。狡猾に口角を引き上げ、二つの瞳を奇妙に眇めるやり方で、笑って静雄の名前を呼ぶ。静雄はいやそうに、いたそうに、眉根をきつく寄せる。静雄の顔がゆがむ理由が、自身の声に含まれる毒々しい甘さにある事を、臨也は知らない。
「シズちゃんなんて、だいっきらい」
嘘をつくのは愛なのだ。そう、昔、誰かが言った。