めんどうな男の話

ねぇ、と力無く呼びかけてくる語尾が震えたのを捉え、静雄は伏せていた両の目をうっすらと押し上げた。そしてビクリと肩を揺らす。思わず丸くあいてしまった口を数回開け閉めし、いざや、と小さく呼んだ。
「・・・ねぇ、シズちゃんってば」
「臨也、手前、なに」
毒気の抜けきった唖然とした声に反応したのか、臨也はゆらりと静雄を見つめた。戸惑いに揺れる静雄と、静雄の肩を跳ねさせるような表情を湛えた臨也の目線が絡み合う。
そして、臨也は緩慢な動作で体勢を前に倒しつつ、両の腕を静雄の首に回した。ちょうど自身の腕と、静雄の首との間に顔を埋める。
「お願い」という呟きが、熱い呼気と共に静雄の耳を濡らした。
「お願い、シズちゃん」
合間に吐かれる息が、泣きそうになり乱れる呼吸を整える為だというのは明らかだった。
「俺の前でそんな顔しないで」

ぱちりと一つ、まばたきをする。静雄はつい5分ほど前、確かに傷ついていた。いつものように怒り狂う力も無く、あぁ俺はまたこいつに騙されたのかと、ただただ傷ついた。それはもう、平静を装う余裕すら持てないほどに。そしてその元凶は間違いなくこの、今自分の耳元で泣きそうな声を上げている臨也本人だったはずである。
その本人が、何を言うのか。
「そんな顔、って」
「そういう顔だよ」
頭を上げた臨也に、至近距離で覗きこまれた。虹彩が薄く、光の加減によっては深紅ともとれる瞳が咎めるような色をもって濡れている。
「傷つかないで」
「・・・・・・は?」
「俺、どうしたらいいかわからなくなる」
再び熱い息をもらし、薄く目をつむって口づけてきた臨也の唇を受け止め終わるまで、静雄の思考回路はフリーズしていた。だって、と不条理な出来事とぶち当たった時特有の鈍痛の奥で静雄は考える。だってこいつは、俺の事を傷つけようと間違いなく意図的なやり口を使って、そんで俺は嫌になるほどその嫌がらせをまともに食らって傷ついたはずだ。今頃このノミ虫が例のいけすかない高笑いをしててもおかしくない状況なのに、なんでこいつが泣きそうで、俺が責められているのか。
「なんでかな」
「……俺の台詞だ」
力無い静雄の声に反応する様子も無く、臨也はただただついばむようなキスを繰り返してくる。ぐし、と掠れた涙声を隠そうともせずに、鼻先がくっつきそうな程の距離で臨也が囁いた。
「俺の言葉で傷ついたりしないでよ。ホントに、どうしたらいいかわかんなくなる。なんでだろ」
細い柳眉が八の字に歪められ、冗談でなく苦しそうなその表情に静雄は考える事を放棄した。渡来したすさまじい脱力感に、深いため息をひとつ吐く。
「ねぇシズちゃん」
「……知らねぇ」

馬鹿だからじゃねぇの、と静雄は言わなかった。なんだかもう、色々と面倒臭くなってしまったのである。
それ以上の言葉を紡ぐ代わりに、細く長く息をついて彼は不器用に臨也の頭を撫でた。
「…もう黙れば、お前」
「……うん」

彼の掌は上下に動いたうえに結構な勢いを持っていたので、それは撫でるというより叩くという仕草に近かったが、抗議の声は上がらない。

暖房によって暖められたぬるい空気が充満する部屋の中、壁の隅まで照らしていたオレンジ色の照明が音も無く落とされる。小さく笑った臨也の声はそれはもうひどく幸せそうなものだったけれど、同時に上がった静雄の掠れたあえぎ声のせいで、それが彼らの耳に届く事は無かった。